波に消ゆ吾妻

高城由良


 

景行天皇の時代。天皇は己の皇子である日本武尊(ヤマトタケル)に東国征討を命じた。

一行は東国を目指し中央を出発するが、その中には日本武尊の后である弟橘媛(オトタチバナヒメ)の姿もあった。

東国まではまだ遠く、一行は船で上総へ渡らんと走水の岸に着いたところである。

「皇子、先ほどはご心配いただきありがとうございます」

  ふと、弟橘媛は思い出したかのように日本武尊に微笑みかける。

 

スピリチュアルな生命の木

 

「何のことだ」

「相武でのことでございます。まさか国造があのように皇子を欺こうとは、夢にも思いませんで……」

 弟橘媛が話していたのは、一行が走水に出る前の相武の国での出来事であった。

 相武の国を支配していた国造が日本武尊に荒ぶる神を成敗してほしいと依頼したのだ。実際には荒ぶる神などおらず、日本武尊を陥れるための方便である。野に出た一行を国造の火攻めから救ったのは、日本武尊が叔母より賜った草薙剣であった。

 日本武尊は腰に下げた剣を一度握り直すと、弟橘媛に答える。

「礼などはいらん。我々を救ったのは叔母上である」

「それでも私は、心配してくださった皇子の御心が嬉しいのです」

 弟橘媛は一行の進む先を見渡した。大きく広がる海が見える。

(この海を越えれば東国にまた近づける)

 弟橘媛は今一度、気を引き締めて船へ向かった。

 

 船の準備は首尾よく進んだ。風は少しあるものの、波もそれほど高くないように見える。これならば出航は問題ないようだ。

 一行は荷物と共に船に乗り込み、走水の海へと出発した。

 船は風を受けぐんぐんと進む。背中の方を振り返れば、先ほど出発した岸が段々と小さくなっていくのが見えた。

 その様子をとても面白く感じた弟橘媛は、岸への別れを惜しむように岸を眺め続ける。

「何を見ておるのだ」

 日本武尊の問いかけが耳に入って、初めて弟橘媛は船の頭の方を向いた。

「先ほど出た岸がもう、あのように小さくなっています故。なんだか楽しくなってまいりました」

「まことに、姫様もそうですが、私どもも船で海を渡るのはなかなか無い事。興味深うございますね」

 弟橘媛に続いて、彼女の女官も微笑みながら声を上げる。

 しかし、その様子を見ていた日本武尊は一層気を引き締めたように航路の先を見据えた。空も海も青く、風は幾分かあるものの波は高くない。出航した時と同じ条件だが、日本武尊は気を緩めることができない様子だった。

「無事に、向こう岸まで着ければ良いのだが」

 低く、小さい日本武尊の声が聞こえた気がして、弟橘媛はその逞しい背中を一度じっと見た。

 

 出航してからどれほど時間が経っただろうか。

 出てきた走水の岸はもうほとんど見えなくなっている。海は相変わらず青々としているが、弟橘媛は少し陰りだした空の様子が気になっていた。

 綺麗に晴れていた空は徐々に雲が増えている。心なしか空気も重く、波が少し高くなった気がした。何より風が変わったのだ。

 少し強いというものではない。頻度は低いものの、たまに頬を打ち付けるように冷たい風が吹く。

 弟橘媛は徐々に胸騒ぎを覚えていた。

(ここは、もう海の真ん中かしら。先ほどよりも風が強く、何より嫌な感じがする)

 弟橘媛が風に流された髪を煩わしげに耳に掛ける。その時、一層風が強くなった。

 それは気のせいなどではなく、どんどん強くなる風に呼応して波も高くなり始めた。船がゆっくりと左右に揺れる。空を見れば雲は厚みを増し、真っ黒く色を変えている。その雲の隙間からぽつり、ぽつりと雫が一行を目がけて落ちてきた。

「皇子、雨にございます」

「うむ。風も強くなってきたな」

 弟橘媛が日本武尊に声を掛けると、日本武尊は既に気を張っていた。

 船の揺れが大きくなってきた。雨もひどくなり、風がこれでもかと一行に吹き付ける。まさに嵐である。

(これほどの嵐……。もしや海神のしわざでは)

 どくどくと鼓動が高鳴る。弟橘媛は緊張から一度喉をごくりと鳴らすと、胸の前で力強く手を組んだ。

 手を強く握り締めると段々と冷静になっていくのを弟橘媛は感じた。彼女が立ち上がり、一行に向け顔をあげると、その美しい目には強い決意の光が宿っていた。

「この嵐は、きっと海神によるものにございましょう。私が、皇子の代わりに海の中に入ります」

「姫様、それは……、それはなりませぬ」

 弟橘媛の言葉を聞き、女官は泣き崩れる。顔を覆って泣く女官の肩に弟橘媛が腕をそえ、女官をなだめる。

「いいえ、海神の御心を鎮めるためには必要な事。皇子にはこれから東国征討を成していただかなければなりませぬ。どうか、祭事の準備を」

 弟橘媛が女官に言い含めると、女官は涙を拭い祭事に必要な物の準備を始めた。

 菅畳、皮、絹の準備が整うと、弟橘媛は高波に向かい合う。数度、深く息を吐き出すと、弟橘媛はそっと波の上に菅畳や皮を置いた。

「どうぞ、皇子の東征をお守りくださいませ」

 一言、ぽつりと呟くと弟橘媛は畳の上に足を進める。畳の真ん中に座すると、彼女は再び手を組み、祈りを捧げた。

 

 さねさし 相武の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも

 

 高波が弟橘媛を畳ごと飲み込む。

 すると、すぐさま雲は晴れ、波も穏やかになっていく。それは、まるで海神が弟橘媛の願いを聞き届けたようだった。

 船の上の一行は悲しみに暮れた。

 再び泣き崩れた女官の嘆く声の中、日本武尊は弟橘媛が沈んだ海をただただ見つめるしかなかった。

「弟橘媛、我が妻よ。賢き姫よ」

 日本武尊の言葉を走水の海に残し、船は何もなかったかのように進む。

 波の上には、一つの櫛が浮かんでいた。

 

 

 

参考文献 http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2985.html

  

 

□高城由良

九州地方在中。趣味で九州北部の戦国史を勉強しているフリーランスです。

 

 

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